飛鳥の歴史と文化

飛鳥の歴史のあらまし

 邪馬台国が中国の歴史書に現れるのは西暦239年に関する記事からである。邪馬台国の女王卑弥呼も当時の社会状況を反映して登場した指導者のうちの一人であったのだろう。飛鳥の地域にも飛鳥京下層遺構にあたる岡遺跡などの弥生時代に営まれた遺跡がある。
 邪馬台国が初期ヤマト王権(政権)へと移行する頃が古墳時代の始まる時期ではないかと考えられるようになってきているが、ヤマト王権(政権)の大王たちは、その死後に巨大な古墳を築き権勢を誇示した。飛鳥の地域に古墳時代前半頃の古墳は未発見であるが、この時期の集落遺跡として上ノ井手遺跡がある。古墳時代も中頃には朝鮮半島から多くの渡来人が新来の技術を携えて日本列島にやってきている。飛鳥の地域にもこれらの渡来人がやってきて生活しているが、古墳時代の後半頃から飛鳥時代にかけては、多くの渡来系の人々が歴史の表舞台にも登場するようになった。
 古墳時代に続く飛鳥時代は、王権をめぐっての争いが激しく、それにからんで豪族の間でも利益を得るための対立が深刻化し始めていた。飛鳥時代に入る直前頃に伝来した仏教に関して、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いが激しかったことなどがその一例として挙げられよう。しかし、そののちに聖徳太子が登場することにより、秩序ある国家への道が開かれ、天皇を中心とした律令国家が築かれていくことになる。用明天皇の皇子であった聖徳太子は、幼い頃から聡明で、10人の訴えを一度に聞いて誤りなく裁断できたというエピソードの持ち主である。また、飛鳥時代の始まりとされる推古天皇が即位した時期に摂政として政治をよく助けたとされるが、その施策は、仏教を基調としたものであり、蘇我氏の権勢を押さえながら、天皇中心の統一国家を築き上げることが目的の一つでもあった。その方法として、冠位を定め、憲法を制定し、天皇の権威を高め、史書を編纂するなどしている。
 また四天王寺や法隆寺などの壮大な寺院を建立して仏教の興隆に努めたため、この時代の仏教建築や彫刻は、輝くばかりの荘厳な飛鳥の文化を作りだすことになった。太子は外交にも積極的な姿勢で臨み、中国との国交に、それまでの朝鮮半島経由をやめ、直接使者を送って対等な関係を樹立した。そして、多くの留学生や僧を送って、中国文化の摂取に努めている。太子の没後、政治の実権はまたもや蘇我氏に戻り、太子の子である山背大兄王が暗殺される事件などがあったが、中大兄皇子によって蘇我入鹿が倒され大化の改新が始まると、豪族の政権介入に一応の終止符が打たれた。こうして聖徳太子の政治理念は、大化の改新によって受け継がれ、天武・持統の両帝によって確立されたことによって飛鳥時代は幕を閉じる。
 飛鳥の歴史には、いまだ解明されていない問題が残されており、今後の研究に待たねばならない事も数多くある。しかしながら、現在では美しい棚田を中心とした農村風景が展開するこの地に立てば、古代国家形成に情熱を傾けた人々の息吹が聞こえてくるようである。

 

飛鳥の文化

 飛鳥の歴史は、政治面では争乱の歴史であったが、文化面では、今日の文化の基礎が花開いた時代ということができる。
 この時代に次々と建立、製作された、飛鳥様式と呼ばれる寺院や仏像彫刻は、引き続き白鳳・天平様式へと推移する。現在、飛鳥文化をそのまま伝えるものとして、山田寺回廊や飛鳥大仏の他、斑鳩の法隆寺及びその周辺を挙げることができる。特に、法隆寺は一度焼けたとはいえ、伽藍配置や仏教の様式に、大陸の六朝風が取り入れられており、現存する飛鳥文化の代表作とされている。
 一方日本文学の原点といわれる万葉集には、飛鳥時代の人々の歌が多数収録されており、これらの歌謡には、当時の人々の大らかな生活ぶりや、繊細な生活感情がよく表されている。文学作品としても非常にすぐれたものがあり、飛鳥文化の水準の高さを証明している。また、これらの万葉集を書き写すために、いわゆる万葉仮名が生み出されることにもなった。

トップへ戻る