飛鳥保存財団: 2008年1月アーカイブ

point.gif檜隈寺跡/於美阿志神社(ヒノクマデラアト/オミアシジンジャ)

02-01.jpg02-02.jpg

 昭和54年からの発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが検出されている。これらの伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという特異な配置であり、かつ瓦積基壇という工法は、近江、山城、そして朝鮮半島の寺院で多く用いられており、日本への導入も渡来系氏族との関係が指摘されている。また、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵する。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。その他に平安時代の遺構からではあるが、金銅製飛天の破片が出土をみており、東漢氏の中心氏族檜隈氏の氏寺として建立された当寺の出土遺物としてふさわしいものである。現在、阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔が現地にある。また、このあたりに宣化天皇の盧入野宮があったといわれているが、定かではない。

point.gifキトラ古墳(キトラ コフン)03.jpg

 直径14m弱の円墳で、高さ約3.3mの二段築成となる。発掘調査により、排水施設の存在や版築とよばれる古代の土木工法によって墳丘が築かれていたことが明らかにされた。埋葬施設は凝灰岩の切石を使用した石槨で、天井石の内側は、マルコ山古墳と同様に屋根形に掘り込まれている。石槨の壁面には朱雀を含む四神図や、十二支を表したと考えられる獣面人身像、日像・月像などを配した本格的な天文図が描かれていたことが、明らかにされた。これらの画題は、中国や朝鮮半島の壁画古墳にもみられることから、大陸における文化の影響を多分に受けていることを感じさせる。墳丘や、石槨の構造、壁画などから高松塚古墳、マルコ山古墳同様、7世紀末~8世紀初頭に築かれたと想定されている。

point.gif高松塚古墳(タカマツヅカコフン)

 

西壁女子群像(現状模写).JPGgaikan.jpg

 04-02.gif

 

 直径23mの二段築成の円墳である。1972年の発掘調査によって彩色壁画を有する横口式石槨が存在していたことが明らかとなった。鎌倉時代に盗掘されており、副葬品は破損していたが、漆塗木棺が使用されていることがわかり、海獣葡萄鏡、金銅製飾棺金具、銀装大刀金具、琥珀丸玉、ガラス玉、丸玉などが残っていた。被葬者については明らかではないが、石槨の構造、副葬品などからキトラ古墳やマルコ山古墳などと同様に、7世紀末~8世紀初頭にかけて築造されたと考えられている。蓋・円翳・蠅払・鉾・如意などの威儀具を手に執った人物画像、北極五星・四輔四星を中心に二十八宿を模式的に配した星宿図、日月像、玄武・青龍・白虎など当時の中国や朝鮮半島にみられる画題が使用されていることから、当時の東アジアの葬制を考えるうえで重要である。

point.gif天武・持統天皇陵(テンム・ジトウテンノウリョウ) 05.jpg

 天武天皇は、兄である天智天皇の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し進めた。壬申の乱に勝利し皇位に就いたが、686年(朱鳥1)9月、病により崩御した。持統天皇は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である。天武天皇とともに中央集権国家の確立に尽力した。天武帝亡き後即位し藤原京の造営を行っている。檜隈大内陵と呼ばれたこの天武・持統陵は、藤原宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられている。天武帝のために築かれたが、後に702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬されることとなる。1235(文暦2)年に盗掘された際の実検記である『阿不幾及山陵記』に記された記事と、『日本書紀』『続日本紀』などの記述が一致したため、天武・持統合葬陵であることが確定した。

point.gif欽明天皇陵(キンメイテンノウリョウ)06.jpg

 日本に仏教が伝来した頃在位していた欽明天皇の墓とされる。別名平田梅山古墳。前方部を西に向け濠をめぐらす前方後円墳であり、現在もその形が残っている。また、発掘調査によって葺石が良好に残っていることが明らかとなった。造出しを有する前方後円墳としては最も時代の下る可能性が考えられている。背後の東西に伸びる丘陵南斜面に、丘陵をカットして平坦面を造成し、その後墳丘の盛土を盛って構築される。出土した須恵器は、本墳にともなうものと考えられており、欽明天皇陵の時期を検討する材料の一つとなっている。

point.gif吉備姫王墓(キビヒメノミコノハカ)07-01.jpg07-02.jpg

 欽明天皇陵の西側にある小円墳が比定されてはいるが、確定していない。吉備姫王は、皇極・孝徳天皇の母にあたる。この墓の西側の垣の中に猿石と呼ばれる花崗岩の石像が四体あることでも有名である。この猿石は、18世紀初め頃に付近の水田から掘り出されたとされているが、この場所を欽明天皇陵のすぐ南側に存在し、古代の苑池の遺構としての性格も考えられている平田キタガワ遺跡にあてる説もあるが定かではない。製作年代や目的・用途は不明である。

point.gif鬼の俎・鬼の雪隠(オニノマナイタ・オニノセッチン)08-01.jpg08-02.jpg

 欽明陵の近くの道路をはさんで別々に置かれている巨石二つのことで、上にあるのを爼、下のを雪隠という。これは古墳の石槨の底部と蓋がバラバラになったもので、欽明陵の陪塚の一つが崩れ落ちたものと推測されているが、一方では未完成のまま放置されたものとの説もある。呼び名の方は、昔旅人が、この辺りにさしかかると霧がかかり、行き悩んでいる所へ鬼が現われ、旅人を爼の上で料理したのち、下の雪隠で用を足したという伝説から来ている。

point.gif亀石(カメイシ)09.jpg

 重さ10トンを超す花崗岩に亀の顔が巧みに彫られてある。猿石と同系の素朴な石彫で、何のためにここにあるのか謎とされている。置かれている場所からみて、橘寺か川原寺に関係のある飾り石であろうとか、何かの境界をなしたとか、仏教渡来以前の土俗信仰を現わすものとかの推測が行われている。

point.gif橘寺(タチバナデラ)10-01.jpg10-02.jpg

 ほぼ東西方向に中門・塔・金堂・講堂が並ぶいわゆる四天王寺式の伽藍配置となることが発掘調査によって明らかにされている。仏頭山北麓に位置し、すぐ北側には川原寺が営まれている。伽藍創建時の様子は不明であるが、金堂の造営が7世紀の前半頃、講堂の造営は8世紀、塔はその間の時期に造営されたと考えられている。多量の塼仏が出土したことから、川原寺同様仏堂を三尊塼仏で飾っていたと推測されている。『法隆寺伽藍縁起併流記資財帳』や『上宮聖徳法王帝説』などの文献は、橘寺と聖徳太子を結びつけるが、創建の事情は語られておらず、明らかではない。一般的に太子がお生まれになった御寺とされている。境内には二面石と呼ばれる石造物があるが、その顔はそれぞれ人の心の善悪を象徴しているといわれている。

point.gif川原寺(カワラデラ)11.jpg

 1957~59年に行われた発掘調査によって南大門、中門、塔、西金堂、中金堂、講堂、回廊などが検出された。伽藍配置の特色として、中金堂の前庭に塔と西金堂を対置することが挙げられ、このような配置形式をとる寺院として他に近江南滋賀廃寺や筑紫観世音寺などの例が考えられている。川原寺創建の事情は明らかでないが、創建以前の遺構によって埋め立てられた池に埋没していた遺物から7世紀前半を遡り得ないことが指摘されている。また、創建以前の遺構が発見されたことから、これらを川原宮と推定する考えがある。藤原宮期を通じて官の三大寺、四大寺に数えられる格式を保っていたが、鎌倉時代に焼失する。しかし、川原寺裏山遺跡の発掘によって、金箔が施されたものも含めて、千数百点の三尊塼仏、数百点の塑像などが出土し、創建当初の堂塔内の華麗さを伺い知ることができるようになった。現在伽藍の一部が復元整備されており、当時の面影を偲ぶことができる。

point.gif石舞台古墳(イシブタイコフン)12-01.jpg

 我が国における代表的な方墳である。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露出している。天井石の上面が広く平らなため、古くからこの名称がついている。被葬者は明らかではないが、7世紀初頭に権力を握っていた蘇我馬子の墓ではないかと言われている。1933~35年の発掘調査によって方形の墳丘、堀、外堤が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、築造は7世紀初め頃と推定されている。周辺一帯は、国営公園となっている。

point.gif飛鳥川(アスカガワ)13-01.jpg

 飛鳥地方を貫流して大和川にそそぐ美しい川。現在は川幅が狭くなっているが、古代には水量も豊かで流れが激しく、しばしば氾濫しては飛鳥人を悩ませていた。しかし人々は、この川のすべての風物を愛し、日常の生活感情と結びつけては歌に詠んでいた。それらの歌は万葉集の中に数多く残されている。

point.gif奥飛鳥(オクアスカ)14.jpg

 大字稲渕から栢森にかけての飛鳥川沿には、南淵請安の墓とされる石碑(写真左中央)や飛鳥川の飛石と呼ばれる石、美しい棚田の風景が存在する。南淵請安は推古天皇六(608)年、遣隋使小野妹子らとともに隋に渡った留学生のうちのひとりで、大化の改新を計画した中大兄皇子と中臣鎌足に大陸の新しい様々な知識などを伝授したとされる渡来系漢人である。神明塚という小さな丘にある、寛文二(1662)年建立の"南淵先生之墓"と刻まれた石碑が建つ場所を一般的に南淵請安の墓としている。この川に沿って稲淵、栢森を通り芋峠へと続き、吉野へと抜ける道が存在したと考えられており、持統天皇のたび重なる吉野行幸にはルートの一つとしてこの川沿いの道も想定されている。

point.gif伝 飛鳥板蓋宮跡(デン アスカイタブキノミヤアト)15-01.jpg15-02.jpg

 1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出された。その遺構の変遷は、大きく三時期に分類され、それぞれ、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であったことから、支配体制の変革や王権の存在形態、その歴史的変遷を考えるうえで重要である。また、飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子・中臣鎌足が大化改新を断行し、蘇我入鹿を倒したといわれる場所でもある。現在は地表上に当時の遺構を復元、整備されている。

point.gif酒船石(サカフネイシ)16.jpg

 石造物のうちの一つで、平坦な表面に液の溜まりと溝様の彫り込みがある。酒を搾ったものであろうとの想像からこの名前がついたが、油を造ったものであろうとか、庭園の施設の一部であろうとか諸説ある。この石はもともと大きかったものが、近世にはいって高取城を築城する際に大きく割って搬出されたのではないかとの言い伝えがある。近年の発掘調査によって、酒船石のある丘陵は、裾部に花崗岩を据え、頂部に天理市の石上付近で産出する砂岩の切石を積み上げた「石垣」で取り囲まれていたことが数次にわたる発掘調査によって明らかとなってきた。これらの事柄は『日本書紀』にある「宮の東の山に石を累ねて垣とする」「石の山丘を作る」、石を「石上山」から運んだとする、などの記述をあらわしていると思われる。

point.gif亀形石造物(カメガタセキゾウブツ)17-01.jpg17-02.jpg

 酒船石遺跡の北西に位置する謎の石造物。1999年発見された。全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴的である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる湧水施設がみつかっている。斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。

point.gif岡寺(竜蓋寺)(オカデラ(リュウガイジ))18-01.jpg18-02.jpg

 義淵僧正によって建立されたと伝えられるが、当時のものは隣接する治田神社境内にあったと考えられている。 
 重文の仁王門・書院をはじめ、本堂・楼門(桃山時代1614)など堂宇の美しい寺院で、義淵僧正坐像(国宝、奈良末~平安初期)・天人浮刻塼(重文・奈良時代8世紀)・木造仏涅槃像(重文・藤原時代)の他、本尊の如意輪観音坐像(重文・天平)は我国最大の塑像として有名である。なお、胎内仏という奈良前期の銅造如意輪観音像がある。また観音信仰の対象として、西国33カ所巡りの7番札所となっているため常に多くの参詣者がある。開山の義淵僧正は8世紀に活躍する一流の名僧たちを育成した人として有名である。

point.gif飛鳥寺(アスカデラ)19.jpg

 588年蘇我馬子の発願によって建立されたと伝えられる日本最古の仏教寺院。この造営には百済から渡来した僧・寺工など、多くの新知識や技術を携えた人々がかかわった。1956年からの発掘調査によって、塔を中心に東・西・北に金堂を築き、中門からのびる回廊がこれらを取り囲む伽藍配置であることが明らかとなった。日本に類例のないこの配置は、高句麗の清岩里廃寺に近似していることが指摘されている。また、"飛鳥大仏"の名で親しまれている本尊の釈迦如来は、止利仏師の作といわれているが、中国北魏様式をとっており、当寺が東アジアの様々な要素を取り込んで造営されていることがわかる。1196年の火災によって大破したが、法隆寺金堂釈迦三尊像との類似が指摘されている。

point.gif飛鳥水落遺跡(アスカミズオチイセキ)20.jpg

 甘樫丘の東側、飛鳥寺の西側に位置する。発掘調査の結果、特異な基壇を持つ大形の正方形建物遺構が見つかった。発見された遺構は他に、基壇内を走る木樋暗渠、銅管、漆塗木箱などがある。基壇内部に引き込んだ水を基壇上へ汲み上げる装置を持ち、中国に現存する元・明・清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木箱の痕跡が検出されていることなどから、これらの遺構は斉明天皇6年の時、皇太子であった中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であることが想定されている。「漏刻」台が築かれた背景として、当時の中国的な政治理念にもとづいた「時の支配」の観念が存在したことが考えられている。出土した土器の検討から650年~660年代の間に造営され廃絶したと推定されている。

point.gif飛鳥坐神社(アスカニイマスジンジャ)21-01.jpg21-02.jpg

 神道は、大陸伝来の仏教に対し、日本古来の信仰であるが、その信仰を現す神社は、大部分規模が小さく簡素質朴である。この神社は神託によって829年3月10日現在の地に鎮座し、この地最古のものと伝えられる。鬱蒼とした森の中にあって、神のおられる所という意味で呼ばれる"神奈備"の雰囲気がよく現わされている。(飛鳥における神奈備は大和三山や、栢森などがある)
 毎年2月の第一日曜日には天下の奇祭「おんだ祭り」が行われ五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する参詣者でにぎわう。

point.gif甘樫丘(アマカシノオカ)22.jpg

 頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘である。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれている。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。

point.gif豊浦宮跡・豊浦寺跡(現 向原寺)(トユラノミヤアト(コウゲンジ))23.jpg

 日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位するが、崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられている。飛鳥時代の幕開けである。その後、宮は豊浦寺となるが、発掘調査の結果、金堂・講堂など伽藍配置の一部が明らかとなっている。また、出土した瓦からは飛鳥寺との関係が深いことや、遠隔地からも供給されていたことなどが判明した。

point.gif山田寺跡(ヤマダデラアト)24-01.jpg24-02.jpg

 大化の改新の功臣蘇我倉山田石川麻呂によって発願されたとされる。その後謀反を企てたとする嫌疑により石川麻呂は自刃したが造営は続けられた。
 1976年から1996年度にかけて発掘調査が行われ、7世紀に創建された寺院のほぼ全容が明らかにされ、伽藍配置は中心部に塔、金堂を南北に並べて回廊で囲み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房などを配置していたことがわかる。1982年から始まった調査では、東回廊が横倒しの状態でほぼ完全な形で発見されたほか、出土遺物の中には、金箔を施した塼仏、彩色が施された垂木先瓦、垂木に固定する釘を隠すように取り付けられた金色のフタなどがあり、当時の華麗な寺の趣を伺い知ることができる。

point.gif藤原宮跡(フジワラキュウセキ)25.jpg

 天武天皇の遺志を継いだ持統天皇が造営を再開した中国式の本格的都城で規模の壮大さは、それ以前の宮をはるかに凌ぐものであった。「新益京」ともいう。持統天皇から文武天皇を経て、元明天皇が平城遷都するまでの16年間都であった。新しい都造営のため全国各地から役民が集められ、水運・陸運を使って近江などから木材が調達されたことが知られている。宮殿建築に瓦を葺くようになったのは藤原宮が初めてで、主要建物は堅固な基壇を有する礎石建ちの建物となった。京内には多くの貴族、役人が邸宅や居をかまえ、官営の市などが設けられていた。大和三山が描く三角形の中心の地点にあることから、中央集権が確立された結果を物語るものと考えられる。

財団法人
古都飛鳥保存財団
〒634-0138
奈良県高市郡明日香村大字越13-1
TEL:0744-54-3338
FAX:0744-54-3638
info@asukabito.or.jp