跡地 関係の散策スポット

point.gif檜隈寺跡/於美阿志神社(ヒノクマデラアト/オミアシジンジャ)

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 昭和54年からの発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが検出されている。これらの伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという特異な配置であり、かつ瓦積基壇という工法は、近江、山城、そして朝鮮半島の寺院で多く用いられており、日本への導入も渡来系氏族との関係が指摘されている。また、瓦が大量に出土しており、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵する。創建年代は出土した瓦などから7世紀後半~8世紀初頭にかけてと考えられている。その他に平安時代の遺構からではあるが、金銅製飛天の破片が出土をみており、東漢氏の中心氏族檜隈氏の氏寺として建立された当寺の出土遺物としてふさわしいものである。現在、阿知使主を祀ったとされる於美阿志神社や、重要文化財である平安時代に造られた十三重石塔が現地にある。また、このあたりに宣化天皇の盧入野宮があったといわれているが、定かではない。

point.gif飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)(アスカキュウセキ(デン アスカイタブキノミヤアト))15-01.jpg15-02.jpg

 1959年からの発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出された。その遺構の変遷は、大きく三時期に分類され、それぞれ、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮であったことから、支配体制の変革や王権の存在形態、その歴史的変遷を考えるうえで重要である。また、飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子・中臣鎌足が大化改新を断行し、蘇我入鹿を倒したといわれる場所でもある。現在は地表上に当時の遺構を復元、整備されている。

point.gif飛鳥水落遺跡(アスカミズオチイセキ)20.jpg

 甘樫丘の東側、飛鳥寺の西側に位置する。発掘調査の結果、特異な基壇を持つ大形の正方形建物遺構が見つかった。発見された遺構は他に、基壇内を走る木樋暗渠、銅管、漆塗木箱などがある。基壇内部に引き込んだ水を基壇上へ汲み上げる装置を持ち、中国に現存する元・明・清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木箱の痕跡が検出されていることなどから、これらの遺構は斉明天皇6年の時、皇太子であった中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡であることが想定されている。「漏刻」台が築かれた背景として、当時の中国的な政治理念にもとづいた「時の支配」の観念が存在したことが考えられている。出土した土器の検討から650年~660年代の間に造営され廃絶したと推定されている。

point.gif甘樫丘(アマカシノオカ)22.jpg

 頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘である。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれている。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。

point.gif豊浦宮跡・豊浦寺跡(現 向原寺)(トユラノミヤアト(コウゲンジ))23.jpg

 日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位するが、崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられている。飛鳥時代の幕開けである。その後、宮は豊浦寺となるが、発掘調査の結果、金堂・講堂など伽藍配置の一部が明らかとなっている。また、出土した瓦からは飛鳥寺との関係が深いことや、遠隔地からも供給されていたことなどが判明した。

point.gif山田寺跡(ヤマダデラアト)24-01.jpg24-02.jpg

 大化の改新の功臣蘇我倉山田石川麻呂によって発願されたとされる。その後謀反を企てたとする嫌疑により石川麻呂は自刃したが造営は続けられた。
 1976年から1996年度にかけて発掘調査が行われ、7世紀に創建された寺院のほぼ全容が明らかにされ、伽藍配置は中心部に塔、金堂を南北に並べて回廊で囲み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房などを配置していたことがわかる。1982年から始まった調査では、東回廊が横倒しの状態でほぼ完全な形で発見されたほか、出土遺物の中には、金箔を施した塼仏、彩色が施された垂木先瓦、垂木に固定する釘を隠すように取り付けられた金色のフタなどがあり、当時の華麗な寺の趣を伺い知ることができる。

point.gif藤原宮跡(フジワラキュウセキ)25.jpg

 天武天皇の遺志を継いだ持統天皇が造営を再開した中国式の本格的都城で規模の壮大さは、それ以前の宮をはるかに凌ぐものであった。「新益京」ともいう。持統天皇から文武天皇を経て、元明天皇が平城遷都するまでの16年間都であった。新しい都造営のため全国各地から役民が集められ、水運・陸運を使って近江などから木材が調達されたことが知られている。宮殿建築に瓦を葺くようになったのは藤原宮が初めてで、主要建物は堅固な基壇を有する礎石建ちの建物となった。京内には多くの貴族、役人が邸宅や居をかまえ、官営の市などが設けられていた。大和三山が描く三角形の中心の地点にあることから、中央集権が確立された結果を物語るものと考えられる。

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