2015年9月アーカイブ

扶余・定林寺の石塔

 かつて、扶余の中心に、定林寺という大きな寺があった。しかし、660年、唐と新羅の連合軍の焼打ちにあった。そして、この石塔だけが残った。

 石塔.jpg 焼打ちの痕跡なのだろうか、石塔は黒くくすんでいる。これは、百済滅亡時の大火の痕跡なのか。炭が1350年も付着し続けるのか。分からないが、ここに刻まれた文字は明らかに当時のものだ。唐の大将軍蘇定方が「俺が百済を滅ぼした」と彫ったのである。この塔が「平済塔」「唐平百済塔」と呼ばれるゆえんだ。

 石塔2.jpg この文字を見つけた。じっと見ると、「大唐平百済…」と認識できる。 驚いたのは「百済」の文字。「百」と「済」の間で改行されていた。我が百済は、こんな屈辱を強いられたのだ。

 昨夜、暗闇の中でこの塔がライトアップされているのを見た。その時、まさに司馬遼太郎のいう「百済貴族の亡霊」が集まっていたように感じた。それも当然だろう。

 その後、扶余国立博物館で多くの百済仏を見た。以前、新羅の王都だった慶州に行ったことがあるが、そこで見た新羅仏より、百済仏の方が、飛鳥・白鳳時代の仏像と似ていると実感した。

 扶余を一通り見終わり、バスターミナルに向かった。この小さな愛すべき街から離れるのは寂しかった。しかし公州行きのチケットを買い、バスに乗り込んだ。扶余からおよそ1時間。昼寝に最適だった。

 

公州へ

 扶余遷都まで、百済の王都は公州だった。当時の名前は「熊津」。錦江を渡り、田園風景の中を走る。非常に懐かしい光景が広がる。田、畑、畝、ビニールハウスが日本と似ており、さらには穏やかな小山が連なる地形が、近畿地方の田舎とそっくりだからだろう。

 風景.jpg 公州の街の真ん中には錦江が流れている。バスターミナルは新市街にある。百済時代の遺構は川の反対側。 少し距離があるのでタクシーに乗り、まずは公州国立博物館に向かった。

  公州といえば、武寧王(462-523年)の陵墓が未盗掘で発見されたことで有名だ。博物館は、武寧王陵の出土品が大半を占めていた。

  展示室の最初、武寧王自らお出迎え。 

像.jpg 解説には、度重なる高句麗の侵略を退け、新羅や倭、中国南朝の梁との友好関係を通じて、東アジアの国際舞台における百済の地位を確固たるものにした、とある。ちなみに武寧王を継いだのが、日本に仏教を伝えたことで有名な聖明王だ。

 ここには、中国・梁に朝貢した各国使節の絵があった。

tyoukou2.jpg 百済の使節は左から2番目。「歩くときに両腕を広げて歩かず、敬礼する時は片方の足を伸ばさなかった」と説明があったが、もうひとつ意味が分からない・・・

tyoukou.jpg

 

 お、いました、我が倭国の使者!(一番右)。色黒で髭が濃い。いわゆる「縄文顔」だ。その左は高麗と書いてあるが高句麗の使者。一人置いて新羅の使者。どこか新羅仏に通じる顔立ちだ。

  展示品を一通り見た後、博物館を出て、建物の脇にまわり、裏山を上った。この山一帯が宋山里古墳群だ。そのなかに武寧王陵を発見。韓国まで来て古墳を探している自分も発見した。 

武寧王.jpg

おわりに

 

bas terminal.jpg

 今回、本報告では語り尽くせなかったが、扶余と公州では、石の形、彫刻、地形、そして仏像の顔など、あらゆる点で飛鳥との太い絆を実感しました。公州のバスターミナルで次の目的地へと向かうバスを待ちつつ、次回はぜひとも10月の百済祭りを訪れたいと考えました。 お読み頂きありがとうございました。

(終わり)

 

                                           藤田賀久

(第7期応援大使、任地:東京)

 アジア、ユーラシアへと繋がっていた飛鳥。竹内街道を往来して、世界から飛鳥へ、そして飛鳥から世界へと人が動いた。こうした人々の息吹を感じるべく、8月、百済の都があった扶余と公州を訪ねてきました。以下、旅日記のスタイルで2回に分けてご報告いたします。

 

扶余(ぷよ)への道

 扶余は遠かった。仁川空港から「ソウル南部ターミナル」に行き、改めて扶余行きの最終バスに乗る。バスは一路南下した。20時過ぎに高速を降りて市街地に入る。暗く、通行人の影はない。

 するとバスが止まり、数人しかいない乗客はあっと言う間に暗闇に消えていった。暗く古い街。これが扶余の第一印象だった。そういえば司馬遼太郎も『韓のくに紀行』で「扶余の街は暗く寂しく・・・」と書いてあった。

「陽のなかの扶余の地上には百済人が遺した文物はほとんどなく、むしろ陽が落ち、闇がこの山河をつつんでからにわかに古(いにしえ)の扶余が立ち現れるようにおもわれる。夜は、扶余の亡魂たちのひしめく時間であるようだった」。

 翌朝は快晴、昨日までの台風が嘘のようだった。少し歩くと市場に来た。そこでは、新鮮な野菜や魚が店先に積まれてあった。扶余住民全員が買いに来てもまだ余るのではないか、と余計な心配をしたくなるほど、沢山の食材があった。太刀魚が並び、秋がそぐそこだと実感する。韓国人も太刀魚が大好きで、一人あたりの消費量は日本人を上回るらしい。

扶蘇山城――白村江と落花岩

  聖王の像が鎮座するロータリーの右奥に緑の小山がある。そこが扶蘇山だ。百済時代の寺院や武器倉庫の址が残っている。どこか飛鳥の甘橿丘と似ている。甘橿丘の海抜148メートルに対して106メートルと少し低いが、登った印象では扶蘇山の方が大きい。

 整備が行き届いた山の道を歩く。美しい樹木に蝉の声が響く。山頂を超えて少し下ると、悠々たる錦江が視界に入る。白村江と呼ぶほうが日本人にはなじみ深い。

錦江を眼下に見下ろす断崖にでた。ここは「落花岩」。唐と新羅に追い込まれ、百済が滅亡する瞬間、百済貴族の女性達がここから次々と身を投げた。その姿が花びらの舞いに見えたことから「落花岩」の名がついた。

落花岩.jpg

この岩に立ち、対岸を眺めた。田園と小山が連なる景色が広がる。どこか懐かしい。そう、飛鳥に似ている。上野誠『大和三山の古代』によると、奈良の大和三山のように扶余にも三山がある。しかし、どの山を指すかは分からなかった。いずれにせよ、百済女性達はこの光景を最後に見つつ身を投げた。

 近くに「皐蘭寺(ごらんさ)」というお寺がある。自ら命を絶った百済女性を弔ったお寺だという。そのお堂の背面の壁には、百済最後の姿が描かれてある。

 落花岩2.jpg

 百済滅亡の図と並び、かつての百済の栄光を示す絵があった。 倭の国からの留学生が百済に到着するシーンだ。

 倭の使者.jpg

 この絵の上には次の文字が書かれていた。

 

時は
西暦518年
しまめ、とよめ、いしみ
という日本の少女三人
仏教を知り
尼になるために
命を賭け
玄海灘を渡り
留学の道を
皐蘭寺に
選んだという

 

 私の母は奈良の生まれであるが、ずっとさかのぼると、ひょっとすれば百済亡命貴族の末裔かもしれない。あるいは、百済復興を唱えた斉明天皇に従って白村江で唐・新羅軍と戦い、命を落としたかもしれない。 はたまた、この日本の少女が先祖かもしれない。

 こうした空想をするのが楽しかった。そして再び扶余の街を臨み、次に百済人が遺した数少ない遺跡である定林寺の石塔を目指した。(続く)

 

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